同胞

 いつ、どこで、どんな地点に展開されるのかはまだ判らない。唸り続ける私の脳の中で、赤い夜空の下に力強くせり出している真紅の岩々が、何の前触れもなくして反射的に見覚えのない波動を放出することがある。それは魔法を使う者が展開する魔法円の前触れのようなものでも、何らかのテレパシーでも、降霊術でもない。あくまでも特定の能を持った「波動」そのものであり、俗に「オーブ」と呼ばれる玉響現象とは違うのだ。やがて、その岩々はどこからともなく人間の少女のような呻き声を上げた後、一瞬にしてただの石ころのような粉々の残骸と消えた。

 その人間の少女は数ヶ月前に街から消え、私の穴蔵にも来なくなった。その子はクロコダイルの小さなバッグに自分の名前の書かれたものを付けているようだったが、私だけには名前を明かさなかった。彼女は私のことが嫌いだったのではなく、あることに利用されている自分への救いの手を差し伸べたはずだ。首に鋼鉄の首輪を着けているその姿を見る限り、どこかしら怪しい経歴があると私は見抜いたのだ。あれからちょうど数ヶ月経つが、彼女は未だに幻影を彷徨っているかもしれない。幻影は、あの赤い夜空の下にせり出す真紅の岩々にも似た、人間をやめた者が見る夢の中の世界だ。

 私は、幻影に踏み込んだことのない勇気ある人間のひとりなのだが、いつの日か彼女と同じように、いや、足跡と痕跡を追うように、人間をやめる日が来るかもしれない。なぜなら、私はもう既に《殲滅者(リッパー)》となっていたからだ――――。

 黄昏時、私は穴蔵のベッドとは全く違う場所で目を覚ました。「蝶番(ちょうつがい)の園」‥‥阪鉄百貨店の屋上に置かれた、とてつもなく寒く、とてつもなく暗い部屋だ。何者とも解らぬ人物の描かれた掛け軸に深紅に光る障子、そしてちゃぶ台の上に恐怖感を煽るほど奇怪な民芸品の置物がぽつりと置かれたその部屋の内部で、真っ赤な布団にくるまり、真っ青な顔つきで、自分をここから出しに迎えに来る青年の到着を待っていた。というか、もう待ちくたびれた。かれこれ数時間ほどこの拷問室にいる。不思議なことに、私の体に金縛りは起きないのだが、(私服を着たまま飛ばされたので)フード付きのロングTシャツで頭を覆いながら天井の木目をじっと見ていると、妙なものが眼中で蠢き始めるのだ。その景色が、あまりにも気持ち悪くて仕方なかった。養父がパチンコで負けた日の夜に見たあの悪夢にも似る、漠然とした姿のある悪夢だった。

 血痕のようで、筆から落ちた墨のようでもあるひと雫の塗りつぶされた何かが動き出し、そして、木目から漠然としたランダムな漢字(ほとんどが常用漢字の枠から外れた字だった)が現れ、それらがうねるように踊り出す。伴奏はどこからともなく聴こえてくる、何者かがおりんを鳴らすような音だけ――――。

 危うく吐き気を催しそうになったその瞬間、クラスメイトを数人引き連れた青年が、見覚えのある隈取り男の横顔(未来の私かもしれない‥‥)が描かれたふすまを開け放った。

「大丈夫か、團治郎!」

「‥‥小松原高校の山津明楽か。ずっと貴方たちを待っていたぞ、約3時間半」

「えっ‥‥」

明楽の顔色が一瞬、真っ青になった。

「この部屋は世にも恐ろしい。今しがた、障子からまさにあの男が出てきてもおかしくない予感しかしていなかったのが私の本音だ。早くここから出したまえ」

「あの男、って豹吉のことだろ?お前をこの部屋に収容しやがったのは、ひょっとしたらそいつじゃないかもしれない。お前の使命はそいつへの復讐なんだろ?!俺たちが助けてやるから、早く一緒に脱出するんだ!さもないと、俺たち山津家のジュリエットが‥‥」

「‥‥一体、誰と対立しているのだ?ロミオは誰だ?」

「北新地で社交ダンス見習いやってるあいつだよ」

 その時、私はかなり幻滅して激しくため息を吐いた。

「ハァ‥‥薮内徹か‥‥‥困ったものだ。彼の両親は死んだと何ヶ月か前に小耳に挟んだのだが、あれは親戚による隠蔽工作だったのか。まだ対立しているとは、今年で何年目になるんだ」

「確かに昨日で3年目だ。楽しんでも、苦しんでも、歳月はあっという間に流れるもんだよ。あいつ、法廷ではほとんど窒息するみたいに物理的に苦しんでるだろうな。とにかく今すぐに布団から出て、俺の差し伸べた手を握ってくれ!!俺は俺たちのジュリエットを救いたい、そのためにお前の力を貸して欲しいんだぞ!!!」

「そこまで裁判で争うようなことか、明楽!?」

 激しくふるえながら布団を剥いだ私は、既に汗だくになっている明楽の手を握った。

「何を言ってるんだ、團治郎!!!今じゃあ最高裁どころか国連沙汰にまでエスカレートしてるんだよォ!!!!」

 明楽はさらに上擦った声で言い返した。

「国連沙汰‥‥だと!!!!今の話をここまで聞いた私はこんな泥沼の中にいる家族に生まれなくて本当に幸せだったと思ったぞ!!!!まさか、一族間の対立から暴走して世界市民を血祭りに上げようとするとは!!!!もしジュリエットを救えなかった場合は一体何が始まるというのだぁぁぁああああああああ!!!!!」

「正真正銘の、ハルマゲドンだぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ!!!!!!」

 私の手を繋いだ明楽が部屋から出ようとしたその瞬間、部屋が激しい地響きのような音を立ててゆっくりと傾き始めた。障子の向こうでは気味悪いサイレンが鳴り響いていた。

「な‥‥なんか、天井が崩れて来たんですけどおおおおおおお!!!!」

「ニーナさん、後ろ後ろ後ろ後ろ後ろ!!!!!」

「ぎゃーーーーー、ミサイルーーーーーーーーーー!!!!!!」

「いや、あれは“メテオ”じゃ‥‥‥し、死ぬううううううううううううう!!!!!!」

 やがて、部屋は空から降って来た「メテオ」によって完全に破壊され、瓦礫の山と散った。そのとめどない衝撃波を受けて、私と繋がれていた明楽の手も一瞬のうちに切り離され、彼は空の果てへと消えていった。

「‥‥ごめんな、團治郎。あれは‥‥」

「明楽‥‥結局のところ、ジュリエットは誰だ」

「俺の妹、美奈子だ。お願いだから、早く俺と徹の家族を黙らせて欲しいんだ‥‥さっき国連沙汰とか言ったのは、もし将来、徹が世界的なダンサーに成長したら‥‥」

「‥‥‥もう遅い。貴方たちはもう限界だろう?」

 私と明楽、ずっと離れることはないと思われていた二人の手がことごとく切り離されたその瞬間、私は呪文を全く使っていないにも関わらず剣士の姿になっていた。この部屋に隠されていた内なる力が全て漏れ出し、私の肉体へと乗り移ったのだろうか。

 そして、屋上からは誰もいなくなった。この状態では家族間の抗争を止め、ジュリエットの美奈子を救うことは不可能に違いない。そもそも、これはあくまで明楽が遂行しようとしていた作戦であり、明楽が遂行不能になったとしても、必ず明楽の存在を介さなくてはならないからだ。

 ただ一人生き残った私は、雲一つない月夜、どこからともなく聴こえる「かごかき」という歌曲の調べに導かれるかのように、毒蛾の羽で歩道橋に降り立ち、南に向かって歩き出した。