クレマチス幻想

 歩道橋の階段を颯爽と降りて高速百貨店の前に出た私は、すぐ目の前に広がる梅田新道で燦然と光るネオンの嵐を見上げていた。あれが数ヶ月前、少女が一瞬だけ見せた幻影の「最果ての都」に似通った、光の街だろうか。一見すると何の変哲もないオフィスビルの頂には、どういうわけか酒だったり、温泉だったり、バニー姿の美少女だったりと直接的関係のない広告塔が、不思議なオーラを纏って目まぐるしく輝いている。

 少女が最後に私に残したのは、「御堂筋は時々この世界の裏を教える」という言葉と、8ミリカメラで撮られた、見たこともない奇妙な都市でのワンシーンだった。そこではビル群の背後で赤いサーチライトが夜空を照らし出していた。そして今、私が降り立ったこの場所でも七色に光るサーチライトが夜空を照らしている。これらの景色とあの言葉との共通点に、何を見つけ出したのかは分からない。ひょっとすると、星の数ほどあるのかもしれない。小松原高から私を助けに来た生徒たちが私を庇って消えた今、私に課せられた任務も、作戦もない状態になった。そんな鈍いほどの虚無感に支配されて、己の体、ドス、そして魂は一体、どこへ向かうのか――――。

 私は少女の最後の言葉に導かれる、いや、引きずり出されるかのように、梅田新道のネオンの嵐に向かって飛んだ。が、着地したところは、お初天神通りの最果て、境内へ繋がる裏口だった。どう見ても菅原道真公が天界から拒絶したとしか言いようがないが、これから私はどうすればいいのか?という問いへの答えとも取れるその着地点の付近には、偶然にも徹が立っていた。

「徹!?‥‥そんな所に立って、一体何を見つめているのだ」

 彼は、ただ神妙な表情を浮かべて駅前第3ビルの建設現場を眺めているようだった。

「何言ってるんだ。信号が変わるのを待ってるだけだろ。というか、なんでお前がいるんだよ。それが一番聞きたいんだ」

「先程、蝶番の園に“メテオ”なんぞが降ってきてだな‥‥」

「ぉおい、アソコじゃ!!昔、サテライトスタジオだった所じゃねえか!!!」

 徹は顔色を変えて飛ぶように驚いた。

「私はその直前、小松原高の生徒会長候補生に助けられるまで、蝶番の園に私服姿で収容されていた。どうしてそこに連れて来られたのかはまだ分からないが、あの候補生が差し伸べた手を私が握った隙に、部屋がいきなり崩れ始めた。後ろを向くと“メテオ”の姿があり、候補生に同行していた生徒たちは皆、そこから発せられた凄まじい衝撃波と瓦礫の嵐に飲まれて消えてしまった。そしてただ一人、残った私が気付けばこの服を着ていたわけ。瓦礫から抜け出し、明楽との手が離されたその瞬間にだ。自分の陰陽玉、そして長ドスもちゃんと装備してある。のに‥‥一体、どうしてなのだろうな」

「アレ‥‥実は、仮想世界かもしれない。確か、あのスタジオの跡はほとんど更地で、花壇と記念碑しかねえんだよ。俺、見たぞ?」

「なっ‥‥‥‥‥」

 私はそれから一瞬の間、言葉を失った。徹も同じだった。

 

「‥‥まあ、そのことはさておいて、貴方にはまだ仕事が残っているだろう。貴方は“ロミオ”と呼ばれている。候補生の代わりにもなって、“ジュリエット”と呼ばれる彼の妹の美奈子を護ってほしいのだ」

「俺が‥‥“ロミオ”だって!? そんなの、全く聞いていないぞ」

「私は明楽の口から聞いたのだが、その山津一族と貴方の家族がよく分からない理由で長らく対立していてね。そうした影響で、貴方は美奈子を自由にできることになっている」

「えええぇっ、俺に彼女ができたわけじゃ‥‥なかったのかよ!!!!」

「ところがそれも束の間、美奈子はどうやら貴方の親戚に付け狙われているようで。明楽なしで抗争を止め、美奈子を護るためには、まず、その親戚を黙らせるしか」

「法廷に何度も連れて来られたのは覚えてるんだが‥‥俺、布団の中にいたまま運ばれちまって、ものすごい夢見心地に浸ったまま時が早く過ぎてった。そのせいで、俺は家族間の抗争があったこと自体を知らなかったんだ。でも、そいつが何を言っても黙ってくんねえぐらい悪い奴ってことは覚えてる」

「だったら‥‥これをあげましょう」

「おいっ、團治郎‥‥何を!?」

 私は胸元のダイヤモンドから、「一刀両断◎悪鬼退散」の字が柄に刻まれた短いドスをゆっくりと引き抜いた。

「私のドスの妹分、“堂島女郎”ですわ。世の短いドスよりもさらに短いものだが、これなら確実に其奴(そやつ)を黙らせることが可能だ」

「えっ‥‥というか、なんで《曽根崎心中》に出てくるお初の職業を付けたんだ?」

「たった今、付けたのだが。そもそも元々は行原博士のもので、彼があまりにも自分の開発した武器に名前を付けたがらなかったので、私が付けておいたのだ。陰陽玉の“翌檜”もそうだ」

 そして徹は、私が手渡したそのドスを恐る恐る凝視した。

「‥‥いいのか。俺がこんなもんを使って‥‥ただでさえ、血が大の苦手なのに。俺がこんなことをしたら大量の血を見ることになるぞ、いいのか?本当に」

「いいよ」

 私は静かに頷いた。

 ドスを革のバッグに忍ばせ、失意のような表情を浮かべて東梅田駅へと向かう徹を、静かに、ただ静かに見送る私は、ある咄嗟の思いつきで、北新地方面に向かって飛び立った。自分にはまだ少しだけ、あの少女の言葉を信じているところがあった。時々この世界の裏を教える御堂筋――――なぜそのメッセージを伝えたのか訊けないまま、彼女は遥か遠い場所に消えた。数ヶ月前まで、居場所を求めていた彼女にバレエを教えたり、料理をあげたりしていたのだが、今は誰に言っても決して信じてくれないことだろう。鋼鉄の首輪をつけた、あの怪しい経歴のある少女のことを記憶している人々もいないはずだ。しかし、自分はまだ感じている。彼女が彷徨い続けている幻影からの、ほんの僅かな波動を。

 やがて、誰もいない北新地の本通りに降り立った私の目の前の焼肉屋に、一輪の白いクレマチスが咲いていた。私はその植木鉢を見た。この店のある客が付けたニックネームが刻まれている。

 名前は、「同胞」ーーーー

 すなわち、祖国を同じくする者同士、または同じ母から生まれた兄弟姉妹のことだ。私の場合、祖国(梅田)を同じくする者同士という点では明楽、行原博士に〈白はこべ〉の篠田ラズベリなど何人もいるが、同じ母から生まれた兄弟は誰もいない(そもそも自分が肉親を知らない)。しかし、世間一般に言われているのは、穴蔵の隣にあるボウリング場のオーナーが肉親ではないかという話だと聞いたことがある。その話が広まったのは、全国区に出回る「アンパン」とかいうファッション雑誌に載っていたコラムで、しれっと私に関することが書かれて以降のことだそうだが、あれから5年間、全く信じていない。これまで出会ってきた人間たちに、親知らずは出自を秘匿するものだと、どれだけ言ったことか。善良な者、敵対する者問わず。結局この名前が暗示しているメッセージなど何もないように思えたが、その時、店の前を通りがかった一人の青年から、「ここ、大阪じゃねえぜ」と言われてしまった。なぜだ。なぜ、彼はあの幻影の存在を証明できたのか‥‥私は一瞬、そう思った。

 が、それからすぐにこの青年が自己紹介をした後、私は茶髪に黒いシャツ、赤ネクタイ姿の彼に、ただならぬ既視感を覚え始めた‥‥。

「‥‥貴方は、誰だ?」

「オレの名前は、梅田修三だが。あそこの樽が積んであるクラブで歌う男さ」

「あら。10年前のあの生贄不合格者(どうして‥‥‥どうしてキミが生きてるんだ‥‥ボクは夢を見てる‥‥実体のある夢をずっと見てる‥‥なぜ‥‥なぜなんだ‥‥‥しかもこいつ、生贄承認試験に落ちて自害したと思い込んでたのに‥‥なんでキミが生き残れたんだ‥‥‥もうボクにとっては何もかもが夢の中だ‥‥‥)が、咄嗟の思いつきで来たこの通りで私と出会うとはな」

「い、生贄ェェェェェェェエエエエエエエエエエ!!?!?そもそもオレ、承認試験を受けようとしたかぁ?!」

 ――――修三だ。修三こそが「同胞」に最も相応しい。あの花の放っていた力が、私を「同胞」の存在証明へと導いたのだ。

「確実にリストには私の名前も貴方の名前も入っていた。それに、試験を受けた堕天使寺院の列にはちゃんと貴方も並んでいたからね。あの時、試験に落ちた者はみな死んだ。貴方だけ、なぜ死を免れることができたのだ?」

「もうこの世界では生きられねえからって逃げる決意をし、あそこから“這い上がって”来たんだよ」 「(あー、もう、全部が幻想だ‥‥)這い上がれた貴方は幸せか。私は全く幸せではない」 「幸せさ。お前が幸せじゃないのなら飯をおごってやるよ。妹のやってるバーまで案内するからな」 「ハァ‥‥‥」