02/22/26

幸野正義の死生観〜ヨハネ黙示録のデータ再生と死後の世界

大阪マラソンの日にヨハネ黙示録の話をする俺はひっでえ。

幸野正義の歌詞世界を構築する最大の要素というのはずばり「死生観」である。彼が1975年に発表した処女出版EP『パーフェクト・ロリータ』とファーストアルバム『踊る騎士』は実は一作のアルバムであり、一貫して思春期(李小龍のような髪型だった)の異常な感覚過敏と理由のない精神崩壊、そして私的虚空を展開し瞑想に耽る様を綴っている。

その「瞑想」が、人間はなぜ死ぬ諚にあるのか、人間はなぜ将来死ななければならないのか、死後の世界が果たして実在するのかどうか、などといった人類の抱く最も単純にして壮絶な疑問を帳消しにするかもしれないし、一歩間違えれば永久に増幅される恐怖心に変わってしまうかもしれない。「死にたくない」「長生きしたい」と言い続けても、いずれは叶わなくなってしまうから。だって、人類だもの。

……そういう、人によっては駄々を捏ねるほど号泣させる主題を、幸野“メイシー・スケルトン”正義はブレずに表現し歌い続けているのである。すなわち、あの二作品で、キリスト教、仏教、ヒンドゥー、タオイズムの概念・言葉・哲学を無節操なまでに融合した「正義聖書(Macy's Bible)」は、ほぼ完成されていたわけだ。ここで彼の世界観の大まかな礎となった双璧、新約聖書のヨハネ黙示録と旧約聖書の創世記についてざっくりと必死に語る。

「わたしはアルファ(アルパ)であり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」 (ヨハネ黙示録22:13, 1:8)

イエス・キリストの再臨の言葉で、最も代表的なものに数えられる発言。今や神話的存在となって久しい日本を代表するコピーライター糸井重里は、15年ほど前『今日の糸井重里』という本(BRUTUS特別編集合本、2012年発行?)にて池袋サンシャインシティ専門店街「alpa」の名をこの「アルファ」から付けていた事実を明らかにしているが、私はこの後の「最初の者であり、最後の者」「初めであり、終り」が「生の循環」に連なるものであり、前世と来世の中継地であり、ひいてはヒンドゥーと仏教の「輪廻転生(サンサーラ)」をも代弁しているのではないかと思った。アド街ック天国の初代宣伝部長・愛川欽也の最晩年の言葉に「街は建物じゃなくて人なんだ」というものがある。今振り返れば、この言葉こそがまさに「初めであり終り」の概念そのもの。街を築いたであろう先人たちがいつかの「終りを警告する」という、預言者ヨハネが見た幻に呼応する何か。この言葉を思い出す度に、自分はそう感じている。

創世記のアダムとイヴ、そして生命の樹

この単語で某・汎用人型決戦兵器のSF(日本SF大賞を受賞するほどの重要作)を思い浮かべた人は多いはず。あの作品の世界観とスケルトピア(幸野正義ワールド)は、実はどこかしらでかなり通底している所が多い。ファッション的モチーフにしている赤い十字架とかもその一つ。創世記(ジェネシス)は世界がいかにして生まれたかを説く物語であると同時に、人類がいかにして生まれ、思考や行動、知能、そして社会を築くに至ったかを説く人類史上最も重要な教訓であるのは言わずもがな。しかし、その中でうっかり禁断の果実を食べ、楽園を追放されてしまった史上最初の人類「アダム」と「イヴ」の悲しき運命は、スケルトピアの事初めたる「生命の樹」の中でまさしく「正義(⑤ゲブラー。形成の世界〈イェツィラー〉にある)」の場所に立つ者、すなわち幸野正義の心に眠っていたパンドラの箱を開けようとするのだ。というのは『踊る騎士』の最初を飾る組曲「啻に血を盛る」における終曲「新たなる生の歌」(由来は戦前の寮歌)で少女合唱団が歌い上げる警告であり、その後の作品では創世記と生命の樹の深層をより掘り下げている。